影のないわたしが立っているアスファルト

 

2017年 8月21日

 

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 「放つ」という日本語がもつ神々しさ。はなつ。意味通りの開放感と、発音したときの心地よさ、「つ」の余韻。見届ける余裕みたいなものを感じて、明るい言葉だな、と思う。

 

 わたしは誰かを傷つけることに抵抗がない。いちいち人の痛みなどを推し量ってやる奴の気が知れん。所詮、推測は推測でしかなく、多くの場合は同情止まりだろう。

 わたしより酷なことをしている人間。

 わたしは誰かの罪に加担するのではない。わたしはわたしのためにしか生きられない。わたしにはわたしの罪があり、一生ぬぐえないそれを連れて生活するしかない。逃れることは情けない。感情に背けない。そこに他人の陰など映らない。

 わたしは優しくないが、同様に優しくない誰かに責められる筋合いもない。信頼した人、裏切られた人、信頼された人、裏切った人。オセロゲームに付き合う暇は誰にだってないでしょう。わたしはわたしのために生きていくだけなのだから、目まぐるしくひっくり返る白か黒の二極で、盤の上で、いちいち他人を気遣うなんて、そんな嘘くさいことはできない。いい人を演じることはできても、いい人にはなれない。

 罪悪感なんて、病的な自惚れの、いよいよの末期症状だ。せこい。開き直るのも快くないが、償うことのできない罪について嘆くよりはいくらか軽い。後々になって心が痛むくらいなら、常に真の善人であり続けること。わたしにはそんなことできない。できないから、ドブ水でも啜っている。