文学以外いらない?

 

2018年 6月19日(火)

 

検索したけど、引っかからなかった。

ハルカトミユキのハルカさんという方が、以前このようなことを言っていた(ような気がする)のだ。

「嫌いな言葉に抵抗する唯一の手段は、自分は決して使わない、ということ」

わたしはこの意見に同意です。しかし、自分は決して使わないということはできても、使っている人を見るとやいやい言いたくなってしまう。幼稚だなあ。

 

わたしは「エモい」という言葉が大嫌いだ。

もはや言うまでもないが、「エモい」は「エモーション(emotion)」の形容詞形「エモーショナル(emotional)」の意(感情的、叙情的)であり「言葉では上手に説明できないが、なんかメッチャ良い」みたいなときに用いる。用いるなよ。用いるなよの気持ちが爆発して太字になった。Twitterの140文字という字数制限の中で、このような言葉は非常に便利だ。「エモい」とは、いわゆるネットスラングと括っていいだろう。

わたしは常々、言語化がすべてではない、と思っている。もし、言葉という道具ですべてを表せるのならば、文学以外いらない。もし、言葉という道具ですべてを表せるのならば、音楽も写真も映画も絵画も何もかも、とっくにくたばってるはずなのに、たぶん永遠にくたばらない。

わたしたちは小説家じゃない。脚本家でもない。戯曲家でもない。そもそもフィクションを生きていない。よって、言葉で上手に説明できるわけがない。こういうことが前提にあってもいいと思う。

なんかメッチャ良い作品を目にしたとき、言葉にならない/できない気持ちは、とてもよくわかるよ。言葉は出ないが涙は出る、というようなことは、きっとたくさんの人にも数え切れないほどある。

そんなとき、反射的に「エモい」が口をついて出るのは、本当に悲しいことだと思う。語彙力の問題じゃない。語彙力よりも、うんと前の。「~べき」というのは、自分の外に向けてはあんまり言いたくないのだけれど、もっとその気持ちを大切にするべきだとわたしは思うのだ。言葉にできない感情が尊いことを知っている。それなのに、どうして「エモい」なんて言えるの。「エモい」と言葉にした瞬間に、石化するイメージだよ。たったひとつの尊い感情が、はい死にました。

さっき、わたしたちは小説家じゃない~、と書いたけれど、もし「エモい」は最高の褒め言葉なんだ!という表現者(クリエイター)がいるのなら、マジ勘弁。やめちくり~、の気持ちしかない。怠惰。「エモい」なんて感情表現のショートカットじゃん。いきなり右折しようとしたって、直進してきた対向車と衝突だからね。事故ってもいいの?

「センスがあっていいなあ」と、まるでセンスとは生まれつきのもののような言い方をする人がいる。センス(この言葉も好きじゃないな…)というのは、結局のところは経験/体験の量と質でしかないと思っている。質はともかく、量をこなすということが必須で、これはどうやら「エモい」への耐性に少なからず関係している気がする。先に述べた、語彙力よりうんと前の話って、これのことだ。不幸か幸いか、芸術は腐らない。故に死ぬまでの間にすべてを消費しきるなんて不可能。選択したものしか血にならないこと、これはわたしにとってはありがたいことなんだけど、みんなはどう?

「平成最後の夏、エモい」ばっかり言うんなら、そのような人たちは平成最後の夏に置き去りでいいです。わたしはゴー!ゴー!します。ゴー!